2017 10 / 09 last month≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫11 next month
スポンサーサイト  --/--/--  
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 | スポンサー広告  | Page Top↑
その日の前に  11/09/2007  
その日のまえにその日のまえに
(2005/08/05)
重松 清

商品詳細を見る


『その日の前に』 重松清

読書ブログをつけるようになってから、
妙に重松清の作品をよく読んでいる気がする。
これまでは手をつけなかったんだけど、一度手を出したら、
あれも名作っていわれてるよな~と思い出して借りてきてしまう。
そして、読み終わったあと、やっぱり読んでよかったと思う。

「その日」とは、ずばり、死んでしまう、その日のこと。

ゆるく繋がった短編集になっている。

『ひこうき雲』小学生のころ、入院した同級生の女の子を訪ねる話。
『朝日のあたる家』夫が突然死してしまって久しい教師の話。
『潮騒』癌だと告知された日に、男は少年時代の友達を訪ねる。
『ヒア・カムズ・ザ・サン』母子家庭の二人暮しを病魔が襲う。
『その日のまえに』病魔におかされた妻と新婚時代を過ごした街を訪れる。
『その日』妻が召されてしまう、その日のこと。
『その日のあとで』妻が亡くなった3ヵ月後、残された家族の物語。

メインは、後半の3編の家族。「その日」を迎える家族の話に、
それまでの話に出てきた主人公や、その家族がちらりと姿を見せる。

自分が一番印象に残った話は、『ヒア・カムズ・ザ・サン』と、
『その日のあとで』である。

前者の方は、母子家庭で母親が癌かもしれないと怯える息子が、
母の存在について思うシーン。

・・・・・・・・・・

それほど母ちゃんに期待しているわけではないけど、
でも、とにかく、母ちゃんは「いる」からこそ意味がある。
いてくれないと困る。なにがどう困るのか予想もつかないぐらい困る。
いてほしい、絶対に。これからも。

・・・・・・・・・・・

大事な家族が、もし病気でいなくなってしまう、「その日」を
自分の目の前で迎えてしまうかもしれないっていう恐怖や、その困惑ぶりや
恐れが率直に表されてる文で、この表現がすごく心に残った。
ただ「いる」だけでいい存在、それが家族なり、自分の大事な人なんだと思う。

自分は病気をして、一時は命の危険もあって、
それで両親や家族をひどく不安にさせたことがある。
親よりも早く逝ってしまう子供というのは、どれだけ親不孝なことか。
死を、自分の気持ちや都合だけでは止めようがないように、
自分が親よりも先に「その日」を迎える可能性だって、
なきにしもあらずであることを、知っている。
自分がいなくなることを、誰よりも恐れている人たちがいることを
知っている。しかし、知っているからといって、「その日」を迎えることを
避けることができない場合もある。
悲しいけれど、これは真実だ。

多くの場合、人は誰か大切な人が自分よりも先に、
「その日」を迎えることを生きているうちに、何度も経験することになる。
避けても避けられないものだからこそ、「その日」を直視することを
誰もが、時には考えることすら、嫌がるのだけど、
この本を読んで、「その日」を迎えるまでのカウントダウンや、
そして、「その日」がどれほど日常の生活と同じように存在しているかと
改めて考えることができた。

けして、どういう風に「その日」を迎えるべきか、などといった、
そういう類の話が載っているわけではない。
短編での主人公たちは、戸惑いながら、そして恐怖におののきながら、
悲しみつつも、死と生が同居した日常を送っている。
「生きる」ということは、「死ぬ」とはどういうことなのか。
そして、それが自分自身だけのことじゃなく、周りの人間に対して、
どのように関わってくるのかを、見事に描き出した作品だと思う。

最後の『その日のあとで』を読むと、『その日』よりも、
胸に差し迫る悲しみで、ものすごく泣いてしまった。
けして、「その日」で終わりなわけじゃなくて、生きている限り、
その次の日も、そしてその次の日もある。
けして、「その日」ですべてが消えるわけじゃない。

その短編の中では、ダイレクトメールがその象徴だ。
亡き妻、和美がいなくなった後も、彼女宛にダイレクトメールが送られてくる。
そのメールを子供の一人は受け取り手の母がいない不在感で嫌がり、
もう一人は、まだ母の存在を確認することができると素直に喜ぶ。
どれだけ「その日」を迎える準備をしても、自分の身の回りのことだけじゃなく、
社会のどこかに組み込まれた、存在の証というのが残っているものだ。

そんなダイレクトメールだけのことじゃなく、
一番最後の短編が、私たちに教えてくれるのは
だんだんと、亡くなった人の面影が薄れようとも、
「その日」が遠くなろうとも、
それでも、その人が生きていた証は、その生命のきらめきのようなものは、
思い出として、関わってきた人間すべての心の中にあり続けるものだ。

観念的なことだけじゃなくて。
誰かの『死』を考えたり、反対に、自分の『死』を考えたり、
そんなことって、あんまり日常生活ではないんだけど、
こんな本とか読むと、無性に泣けるし、そして辛い気持ちと一緒に、
ちゃんと生きれる分だけ生きていこうって思うんだよね。
「死んだ人もいるけど自分は生きているから」って理由じゃなくて、
ただ、たんに「その日」が訪れるまでの間、猶予期間のように生きている
毎日をもっと、きちんと感じていこう、というか。
生きているだけでいい、なんて簡単に言えないほど、実は生きることは難しいし
辛いことも多く含んでいるのはわかっている。
それでも、今自分が生きてるって、本当に大事なことなんだなぁと思う。

生きているってことを、ただただ丸々受け入れて肯定するのは
自分にとっては難しいことだけども。
いつか必ず「その日」が訪れるから、それまでの間、
できるだけ、きちんと生きていたいな、と思った。

拙い文章ではあるんだけど、今の正直な気持ち。
この本って、こんな拙い文章で表すことは難しい本で、
もっともっとすごい本なんだけど、まだ自分はこの本をきちんと消化して
そして、それを自分の言葉で表すのは難しい、みたい。

ブログランキング・にほんブログ村へ


こころの糧になる本 | 重松清  | TB(0)  | CM(0) | Page Top↑
Secret




TrackBack URL
→http://nutsmeg.blog107.fc2.com/tb.php/85-04b8b085

Blog状況

最近の記事

カテゴリー

訪問者数

メールフォーム